【53】橘の香
今回は情景描写に活かされた和歌の約束事について。
◆思い出のよすが
藤原家隆(ふじわらのいえたか:1158-1237)に
このような面白い歌があります。
今年より花さきそむる橘の いかで昔の香に匂ふらむ
(新古今和歌集 夏 藤原家隆朝臣)
今年から花が咲き始めた橘(たちばな)は
どうやって昔の香りを匂わすのだろう
この歌を読んだ人は笑ってしまったにちがいありません。
当時の和歌の常識に疑問を投げかけているからです。
平安時代の和歌の世界では
橘の花の香りは昔を思い出させるものとされていました。
橘の花と「昔」や「昔の人」を結びつけた歌は山ほどあります。
どうしてそんなことになったのか。
ルーツと考えられているのがこの古歌です。
さつきまつ花橘のかをかげば 昔の人の袖のかぞする
(古今集 夏 よみ人知らず)
五月の訪れを待つ橘の花のかおりをかぐと
昔別れた人の袖の香りを思い出す
橘は初夏に白い清楚な花を咲かせます。
たしかによい香がしますが、「昔の人」は
着物の袖にその香を含ませていたのでしょう。
◆和歌の約束事を活かす
「花散里」の巻で、源氏は麗景殿の女御を訪れ、
昔語りに時を過ごします。
いとゞ小高き影ども木暗く見えわたりて 近き橘の薫りなつかしくにほひて…(中略)
橘の香をなつかしみ ほとゝぎす花散る里をたづねてぞとふ
ひときわ高い木の陰が暗く辺りに見えていて
軒近い橘の香がなつかしく漂っており…(中略)
橘の花の香りに昔を懐かしく思い出し ほととぎすが
(橘の)花の咲き花の散る里をもとめてやってきています
橘の花は夏の到来を告げるもの。
ほととぎすもまた夏を告げる鳥であり、
橘に来て鳴くものとされていました。
源氏の詠んだ上記の和歌はそれらを踏まえたもの。
また花の香の漂うなかで故桐壺院の思い出を語るわけですから、
場面そのものが和歌の約束事
「橘の花=昔」を反映させていることになります。
家隆が皮肉を言いたくなるほどの定番中の定番の組み合わせを
紫式部は巧みに物語の場面に採り込みました。
そして定番であるからこそ、読者たちは
その場の情感まで共感をもって味わうことができたのです。