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【51】平安京不動産事情


今回は光源氏時代の平安京について見てみましょう。



◆栄える左京 荒れる右京


平安時代の僧侶で高名な漢詩人でもあった
慶滋保胤(よししげのやすたね)が遺した
漢文エッセイ『池亭記(ちていき)』(982年成立)に、
10世紀末頃の京都のようすが記されています。

保胤は自邸を建てるために不動産情報を収集したのですが、
それによると右京(西半分)は荒廃がひどく、
左京(東半分)のみが繁栄していたようです。

人気エリアだった左京は過密状態で地価も高騰、
ことに四条以北は貴賤を問わず民家が隙間なく連なっていたそうです。
しかたなく保胤は六条坊門の南に荒地を買い、
そこを整地して邸宅を建てました。なんと「荒地」です。

平安京は碁盤の目のように整然とした都市のイメージがあり、
隅から隅まで整備されたきれいな市街地だったと思うかもしれません。
しかし実際は計画通り都市化されることなく放置され、
ことに右京は雑草に埋れた「郊外」でした。
先述『池亭記』には幽霊が出そうとまで書かれています。

時代は少し下りますが、
『梁塵秘抄』にこのような歌が載せられています。

 西の京行けば 雀(すずめ)燕(つばくらめ)筒鳥(つつどり)や
 さこそ聞け 色好みの多かる世なれば
 人は響(とよ)むとも麿(まろ)だに響まずは
 (梁塵秘抄 巻第二)

西の京(右京)には雀や燕、筒鳥がいると聞いている。
世間にはそこに行きたがる好色者が多いが、
他人が浮かれていてもオレが浮かれなければかまうまい。

男が奥さんに対して、自分が右京に行くのを正当化しているようです。
雀や燕というのは浮気の相手をしていた女たちのことでしょう。
怪しげな街が形成されていたことがわかります。


◆砧の響く下町


フィクションなので厳密なことは言えないものの、
源氏が夕顔を見初める五条界隈というのは
行商人がいたりして下町っぽく描かれており、
夕顔が庶民の住宅街に身を潜めて住んでいたことがわかります。

源氏はそこで、隣家の話し声が聞こえるのに驚き、
砧(きぬた)や唐臼(からうす)の音が間近に響くのにも驚きます。
広いお邸に住む貴公子には想像もつかない住宅事情!

砧は布(きぬ)を板にのせ、木槌で打って艶を出す作業。
和歌に寂しさを象徴する風物詩としてよく詠われますが、
庶民の女性の夜なべ仕事でした。
唐臼は臼を地中に埋め、足踏み式の杵で穀物を搗くもの。
間近で聞いたらさぞうるさく聞こえたことでしょう。

京の町は北東の四分の一ほどが市街地として発展しており、
南へ行くにしたがって庶民の小さな家が密集していた。
紫式部はそういう実態を反映させて
物語を書いていたことがわかります。