【29】咲くやこの花
今回は貴族の習字のお話です。
◆姫君の手習い
「若紫」の巻、源氏は北山で藤壺に似ている少女を見つけ、
わがものにしたいと考えて、養育していた尼(少女の祖母)に
自分が世話役になりたいと申し出ます。
そして後日、源氏はこのような歌を添えて手紙を送りました。
面影は身をもはなれず山桜 心のかぎりとめて来しかど
山桜(姫君)の面影がわたしの身を離れません
わたしの心はすべてそちらに置いてきたのだけれど
尼君は迷った末にこのように返信します。
ゆくての御事はなほざりにも思ひ給へなさりしを
ふりはへさせ給へるに聞えさせむかたなくなむ
まだ難波津(なにはづ)をだにはかばかしう続け侍らざめれば
かひなくなむ さても
嵐吹く尾上の桜散らぬ間を 心とめけるほどのはかなさ
いとゞうしろめたう
行きがけにおっしゃったのはご冗談とも思いましたのに
わざわざお手紙をくださいましてはお返事の申しようもありません
姫君はまだ難波津さえきちんと書けないので
お手紙も甲斐のないことです それにしましても
嵐の吹く峰の上の桜を
散らない間だけご執心というのでは不安です
とても気がかりでございます
尼君の手紙にある「難波津」というのは和歌のことで、
姫君が和歌を手本に手習いをしていたのを表します。
文面から推測すると続け字、
つまり連綿(れんめん)がうまく書けないということのようです。
姫君は和歌を仮名の連綿で書く練習をしていたのでしょう。
◆連綿は貴族女性のたしなみ
「難波津」の和歌というのは
『古今和歌集』の仮名序に出てきます。
なにはづにさくやこの花 冬ごもりいまを春べとさくやこの花
難波津に梅の花が咲いている
冬ごもりをして 今こそ春だと花が咲いている
この歌は百人一首のかるた大会などで
競技の開始前に読みあげられます。
作られたのは古く、
王仁(わに)という帰化人が詠んで仁徳天皇に奉った歌とされ、
仮名序には「てならふ人のはじめにもしける」とあります。
手習い、つまり習字の最初がこの歌を書くことだというのです。
尼君は書道の初歩さえ終えていない子どもに
お手紙をいただいても困りますと、源氏に伝えたのです。
このような手習いの場面は「宇治十帖」にも何度か出てくるので、
まず一文字ずつ離して書く「放ち書き」から始め、
その後連綿の練習に移っていくことがわかります。
手本が『古今和歌集』なので、日々さまざまな秀歌に接し、
和歌のセンスを磨くこともできました。
手習いによって、連綿と和歌という貴族女性必須の教養を
同時に身につけようとしたのですね。